死にたい気持ちが沸かなくなって久しい。
小学4年生の夏の頃に始まり、一昨年の末に自分に住んでいた感情が消えた。
なぜ消えたか。それは治療したからだ。
なぜ治療したか。苦痛から開放されたかったからだ。
死にたい状態は苦しい。自分の場合(死にたい人の多くはそうかもしれないが)、「死にたい気持ち」と「死ねない現実」のジレンマに苛まれて、それが苦しくて仕方がなかった。
(この苦しさの詳細や、死にたい人々が抱くであろう感情の考察も書きたいが、この記事では割愛する)
とかく自分は、一刻も早くその苦しみから逃げ出したかった。そしてたまたま逃げ出した先が今回は「自殺」ではなく「治療」だったのだ。
自分は一昨年の後半から真剣に治療に向き合い始めたが、それまでは正直なところ精神にまつわる医療など信じていなかった。「死にたい気持ちは」は生来のもので、それらは自分と一蓮托生で、自分から剥がれることなどないと思っていたのだ。 結局今でもそれを信じるには至っていない。ただ、医者に「あなたは典型的な症状を持つ患者です」と言われたときにはじめて「典型的ならセオリーに則って治せるのかもしれない。」という淡い期待感が自分の中に芽生え始めたような気がしている。 そして自分は今日まで治療を続け、現在は仕事ができるようになるまで回復している。
さて、寛解後の今の話をする。
家族や周りの人からは「症状がなくなって良かったね」と言われた。
苦しみから抜け出せたのは喜ばしいし、心から治療して良かったと思う。
それからおおよそ一年くらいは死にたいと思っていない期間が続いている気がする。感慨深いような、なぜだか寂しいような感じも少し残っている。
結論としては、今は死にたいとは思っていない。
でもそれは「生きたい」ということなのかと問われれば、そうではない。「死にたい」と思わない一方で「生きたい」とも思っていないのだ。
そしてそれは大きな穴の淵に立っているような、危険な状態だと感じてしまう。
何故なら、生きたくも死にたくもない自分は、ふとしたことでたちまち死にたい状態に戻されてしまうのではないかという恐怖があるからだ。少し押されれば大きな穴に落ちてしまうような、そんな感じがするのだ。
だから自分は今、穴に突き落としてくる何かに怯えながら過ごしている。